続日本100名城・112番・笠間城(かさまじょう)をご紹介します。
笠間城(かさまじょう)は、蒲生郷成が造った天守曲輪や石垣が見所の山城です。
お城めぐりの参考に。
日本城郭検定を受験するときの参考に。
笠間城(かさまじょう)#112『蒲生郷成が造った天守曲輪や石垣が見所の山城』
笠間城(かさまじょう)は、蒲生郷成が造った天守曲輪や石垣が見所の山城です。
笠間城は、茨城県笠間市にある山城です。
見どころ
大手門跡や天守曲輪などの石垣が見所です。
本丸跡には土塁も残されています。
これほどまでの本格的な石垣作りの城は、栃木県では唯一といえる貴重なものです。
主な遺構
天守曲輪
本丸
石垣
堀
土塁など
縄張(なわばり)
笠間城は佐白山(さしろさん)の地形を利用した土づくりの山城(やまじろ)でした。
それを蒲生郷成(がもうさとなり)によって近世城郭(きんせいじょうかく)へと改修されました。
本丸の北東に独立した天守曲輪(てんしゅぐるわ)が作られました。
そして石垣(いしがき)と櫓(やぐら)が築かれました。
山の北西中腹には本丸(ほんまる)が置かれ御殿(ごてん)が作られました。
本丸の北側下方には二の丸と三の丸を配置しています。
これらの二の丸や三の丸の石垣が築かれ、さらに本丸には二重櫓(にじゅうやぐら)も作られました。
本丸の八幡台(はちまんだい)にあった二重櫓は明治13年(1880)に真浄寺(しんじょうじ)に移築され、七面堂(しちめんどう)として使用されています。
歴史
鎌倉時代に笠間氏が城を築いたのが初めと言われています。
その後、約370年にわたって笠間氏が本拠として治めていました。
南北朝時代には南朝方につき、北朝方の佐竹氏の攻撃を撃退するなど、戦いの場にもなっています。
天正(てんしょう)18年(1590)の小田原征伐の後、笠間氏は宇都宮氏に攻め滅ぼされてしまいました。
しかし、城を奪った宇都宮氏は慶長(けいちょう)2年(1597)に改易となりました。
翌、慶長(けいちょう)3年(1598)に蒲生秀行(がもうひでゆき)の所領となりました。
蒲生秀行は重臣である蒲生郷成(がもうさとなり)を状態にしました。
そして蒲生郷成が中世城郭(ちゅうせいじょうかく)から近世城郭(きんせいじょうかく)へと改修したのです。
江戸時代には浅野氏が藩主となり、山麓に下屋敷を作りました。
しかし山上の城も幕末まで存続し、廃城令(はいじょうれい)によって廃城となりました。
笠間城の基本情報
別名 | 桂城(かつらじょう) |
所在地 | 〒309-1611 茨城県笠間市笠間 |
城の種類 | 山城 |
築城年代 | 承久(じょうきゅう)元年(1219) |
築城者 | 笠間時朝(かさまときあさ) |
主な城主 | 笠間氏、蒲生氏、浅野氏、井上氏、牧野氏 |
文化財史跡の区分 | 市指定史跡 |
主な復元や整備 | - |
アクセス | JR 水戸線「笠間」駅より徒歩約50分 JR常磐線水戸線「友部」駅より笠間周遊バスで約15分「笠間日動美術館」下車徒歩約20分 |
日本100名城スタンプ設置場所 | かさま歴史交流館 井筒屋 |
関連施設 | |
リンク | 笠間市役所ウェブサイト |
地図・マップ
まとめ
続日本100名城・112番・笠間城(かさまじょう)をご紹介しました。
笠間城(かさまじょう)は、蒲生郷成が造った天守曲輪や石垣が見所の山城です。
お城めぐりの参考にしてください。
また、日本城郭検定を受験するときの参考にしてください。
じゃあね🖐️
2020年04月29日
犬山城マイスター!たかまる。