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【第十三代・犬山城主】石川貞清(いしかわさだきよ=石川光吉(みつよし)は豊臣に忠義を尽くし、最後まで犬山城に立て籠った。

秀次直系の家臣が城主だったが秀次事件によってまたもや城主交代。

十三代城主は、豊臣秀吉・秀頼に忠義を尽くした男。

石川貞清(光吉)です。

石川貞清(光吉)という男

秀次事件により、それまで城主だった三輪吉高も失脚しました。

城主は秀吉の小飼の武将から選ばれることになりました。

そして白羽の矢がたったのが、石川貞清(光吉)です。

貞清は豊臣秀吉に使番として仕え、金切裂指物使番にも選ばれました男です。

使番とは戦場で伝令や監察、敵軍への使者などを務めるもののことで、かなり重要な役です。

さらに、金切裂指物使番(きんのきっさきさしものつかいばん)とは、使番衆・馬廻衆の中から豊臣秀吉が特に選抜して取り立てた者。

金地の指物(旗指物)の幟の端を切り裂いて風になびきやすくした「金の切裂の指物」を授けられた家臣のことです。

かなり選び抜かれた強者ということですね。

▲ 石川貞清が美濃金山城から移築したとする説があるが、調査の結果から否定されている

天正18年(1590年)の小田原征伐の後に功を認められて、尾張犬山城1万2千石を与えられました。

同時に、信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官も務めたといわれます。

かなりのやり手ですね。

慶長4年(1599年)秋頃、徳川家康より美濃金山城の天守櫓などの古材を譲り受けて、犬山城を改修したとされています。

これが、犬山城天守移築説のもとになったことですね。これについては別で記事を書きましょう!

さて、秀吉が亡くなり秀頼が豊臣を継ぎますがまだ幼少。

そんな慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発。

石川貞清はもちろん西軍につきました。駿府にいた徳川家康からしたら犬山城は東軍の手にしておきたいところ。

しかし、貞清は東軍につくことを拒否して、犬山城に稲葉貞通・典通親子、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らとともに籠城しました。

しかし東軍の中村一忠・一栄に攻められると、加勢の西軍将達は極秘に東軍の井伊直政と通じて寝返り、貞清も関一政に説得されて開城しました。

犬山城三度目の落城です。

しかし貞清は、城を棄てて東軍に寝返った訳ではなく、西軍本隊に合流しました。

本戦では、宇喜多隊の右翼に陣を張って奮戦したといいます。

しかし、西軍は敗北。

敗戦後、貞清は投降しました。

犬山城での籠城中に東軍に加担した木曽郷士らの人質を解放したことが評価されたのと、池田輝政の働きかけにより、黄金千枚で助命となりました。

改易されて所領・犬山と木曾は没収されました。

●城主データ●

石川貞清

十三代目城主

在位 約5年:文禄4年(1595年)~慶長5年(1600)

犬山城歴代城主についてはコチラの記事で。

まとめ

関ヶ原の戦い以降は徳川の家臣が犬山城主となります。

ということで、関ヶ原の前哨戦でも耐え抜いた、犬山城でした。

じゃあね🖐️

2019年04月24日
犬山城マイスター!たかまる。

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