石川光吉が関ヶ原で東軍に犬山城を明け渡したことで、徳川系の城主に代わります。
しかも徳川家の付家老として!
それが、小笠原吉次です。
小笠原吉次という男
関ヶ原の戦いの後、尾張国には徳川家康の四男で松平氏の養子となっていた松平忠吉が清洲城52万石に入ります。
忠吉は関ケ原の戦いで、井伊直政とともに先鋒で働いた武功を評価されたのです。
家康の命により、小笠原吉次がその付家老となりました。
小笠原吉次は清州藩主・松平忠吉の付家老として犬山城の城主となり、入城しました。
後に政庁を清洲から名古屋に移して「尾張藩」となりますが、それ以降も犬山城は藩の付家老の居城となったのです。
その初代が小笠原吉次ということです。
小笠原吉次は犬山城とその城下町を整備し、いわゆる「近世城郭」の形になったと考えられています。
しかし、松平忠吉は28歳の若さでこの世を去り、それにともなって付家老の吉次は江戸に呼び戻されました。
そのあと明治になるまで、尾張藩の付家老が犬山城を拝領して城主になっていくのです。
●城主データ●
小笠原吉次
十四代目城主
在位 約7年:慶長5年(1600年)~慶長12年(1607)
犬山城歴代城主についてはコチラの記事で。
まとめ
付家老としての地位を作り、犬山城に地盤を築いたのは小笠原吉次の功績ですね。
ということで、ついに戦国の世を駆け抜けた、犬山城でした。
じゃあね🖐️
2019年04月25日
犬山城マイスター!たかまる。