国宝に指定されている犬山城天守ですが、戦国時代において落城しています。
何度、落城しているかご存知ですか?
答えは三度です。
それぞれ落城した日がおおよそ分かっていますので、ご紹介します。
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犬山城が落城した日
- 犬山城は美濃と尾張の境に築かれた城
- 三度の戦を経験、そして三度落城
- 永禄8年2月22日、天正12年3月13日、慶長5年9月3日
犬山城は美濃国(みののくに)と尾張国(おわりのくに)の境を流れる木曽川沿いに築かれたお城です。
いわゆる境目の城(さかいめのしろ)として戦国時代を乗り越えてきました。
その戦国時代に、犬山城は三度の戦を経験し、そして三度落城しています。
落城した日がおおよそ分かっていますので、紹介します。
- 永禄8年2月22日(1565年3月24日)
- 天正12年3月13日(1584年4月23日)
- 慶長5年9月3日(1600年10月9日)
この三度です。
以下では、それぞれ詳しく見ていきましょう。
永禄8年2月22日(1565年3月24日)
- 一度目の落城は、永禄8年2月22日(1565年3月24日)
- 織田信長の尾張統一の締めの戦い
- 永禄8年の犬山城の戦い
一度目の落城は、織田信長による尾張統一の瞬間でした。
桶狭間の戦いによって織田信長が尾張を統一したと説明されることがしばしばありますが、桶狭間の戦いの時には尾張は統一されておらず、その後、何年もかかってようやく永禄8年に尾張を統一することができました。
その最後の戦いが、永禄8年の犬山城の戦いです。
当時の犬山城主は織田信長のいとこにあたる織田信清(おだのぶきよ)。
犬山城の2代目の城主です。
・【第二代・犬山城主】織田信清(おたのぶきよ)。従兄弟の信長とドンパチやって犬山城に危機が訪れた!
対して攻める側は織田信長(おだのぶなが)。
尾張をほとんど手中に収め、美濃攻めを再度行おうとしている状態です。
信長公記(しんちょうこうき)によれば、織田信長は小牧山城を築城し、犬山城の支城であった於久地城(おぐちじょう=小口城、愛知県丹羽郡大口町)から敵方が犬山へ逃げて立て籠もったと記述されています。
そして、犬山城を取り囲み開城させたとあります。
これにより犬山城は築城以来、初めて落城という経験をすることになります。
その後、織田信長は稲葉山城を攻め落として岐阜城と改め、さらに安土城へと拠点を替えながら、ほぼ天下を手中に収めるところまで爆進しました。
天正12年3月13日(1584年4月23日)
- 二度目の落城は、天正12年3月13日(1584年4月23日)
- 羽柴秀吉vs織田信雄・徳川家康の小牧・長久手の戦いの尾張初戦
- 天正12年の犬山城の戦い
天正12年(1584)、尾張から伊勢にかけて大きな出来事がありました。
小牧・長久手の戦い(こまきながくてのたたかい)です。
この小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉vs徳川家康の天下取りと言われますが、秀吉は当時はまだ豊臣姓ではなく羽柴姓で名乗っていましたし、徳川家康とがっぷり四つではなく織田信雄と羽柴秀吉の戦いに徳川家康が参戦したという構図が正しい認識です。
天正12年の犬山城の戦いは、羽柴方の池田恒興が美濃から尾張・犬山に対して攻め入って、1日で落城します。
この時の犬山城主は織田信雄の家老だった中川定成(なかがわさだなり)です。
・【第五代・犬山城主】織田信雄の重臣・中川定成(なかがわさだなり)。境目の犬山城を見誤り、池田恒興に奪われてしまう不運な城主。
しかし中川定成は伊勢での戦に出陣していたため、犬山城はわずかな城兵が守っているだけでした。
池田恒興(いけだつねおき)はその情報を得て、美濃から木曽川を渡って犬山城を急襲し、見事、奪取したのです。
これが天正12年の犬山城の戦いです。
・【第三代・犬山城主】信長と乳兄弟であり、重臣でもある池田恒興(いけだつねおき)。功績を認められて犬山城を拝領す!
・【第六代・犬山城主】池田恒興(いけだつねおき)。小牧・長久手の戦いで犬山城を見事攻め落とした!が、しかし!
・【小牧・長久手の戦い/犬山城の戦い】 池田恒興、犬山城を奪う!
小牧・長久手の戦いについては、色々な雑誌や研究書物が販売されていますのでそちらをご覧いただければと思いますが、徳川方の動きについては家忠日記(いえただにっき)に細かく書かれているところもあり、小牧に陣取った徳川家康の動きや羽柴に対してどのように対抗して行ったのかがよく伺えます。
家忠日記(いえただにっき)は現代語訳も2019年になって発売となり、とても読みやすくおすすめです。
この後、羽柴秀吉は関白・豊臣秀吉となり全国天下統一を成し遂げました。
慶長5年9月3日(1600年10月9日)
- 三度目の落城は、慶長5年9月3日(1600年10月9日)
- 関ヶ原の戦いの前哨戦
- 慶長5年の犬山城・無血開城
慶長5年(1600)といえば関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)です。
徳川家康が率いる東軍と石田三成が率いる西軍が関ヶ原で激突し、東軍が勝利を収めた戦いです。
関ヶ原の戦いといえばこの戦いのことを指しますが、その前に美濃や尾張では城の取った取られたという戦=前哨戦が多く行われていました。
当時の犬山城主は石川貞清(いしかわさだきよ)。
・【第十三代・犬山城主】石川貞清(いしかわさだきよ=石川光吉(みつよし)は豊臣に忠義を尽くし、最後まで犬山城に立て籠った。
豊臣恩顧の武将として知られており、もともとは西軍についていました。
しかし、同じ尾張の中心地であった清洲城の城主・福島正則(ふくしままさのり)が東軍についたこともあり、美濃と尾張の境にある犬山城がどちらの手に渡るのか、大注目されるところです。
西軍の武将達が援軍に出て守将として犬山城に入ります。
ここで徹底交戦するところまで来ていましたが、最終的には東軍の調略によって犬山城は明け渡されることとなりました。
これが慶長5年の犬山城の戦いです。
その後、美濃・岐阜城での戦いを経て、東軍は一気に関ヶ原まで攻め上がり、かの有名な関ヶ原の戦いが行われたというわけです。
その後、徳川家康が征夷大将軍に任命され、それ以降は徳川家が天下を治めて江戸時代が続くことになるのです。
関ヶ原の戦いについては色々な本やドラマ、映画などでよく知るところですが、犬山城の戦いについてはなかなか登場しないので、今後、当ブログにて細かく分析解説していきたいと思っています。
三度の「犬山城の戦い」の意味
- 三度の戦、三度の落城
- 美濃と尾張の境目の重要な城
- 織田信長、羽柴秀吉、徳川家康がそれぞれ飛躍したきっかけ
犬山城は三度の戦を経験し、そして三度落城しています。
しかし、いずれも焼き払われたり、廃城になったりすることはありませんでした。
これはひとえに、美濃国と尾張国の境目にある重要な拠点だったということを示しています。
つまり、戦によって奪取した側もその後も犬山城を利用するため、焼き払ってせん滅するのではなく残したのだと思われます。
また先に見てきたように、
- 犬山城を取った側がその後の活動を大きく飛躍させている
- 犬山城の戦いが小競り合いではなく、大きな時代のうねり、大きな戦いの中の一局面として重要な意味を持っていた
と考えられます。
織田信長が城下を焼き払っただけで犬山城を落城させたのも、城をそのまま使いたかったからでしょう。
羽柴方が美濃から攻めて尾張に一歩踏み込んだことによって、小牧山城と楽田城での睨み合いとなり、後に語られる小牧・長久手の戦いへと進展していったのでしょう。
また関ヶ原の戦いの前哨戦においては、尾張と美濃が東軍の支配下に置かれるのか西軍の支配下に置かれるのかによって情勢が大きく異なるため、どちらの軍においても重要な意味があったことでしょう。
このように、古くから犬山城は重要な位置づけの城であり、織田信長、羽柴秀吉、徳川家康がそれぞれ飛躍する重要な戦いの一局面にあったということがよくわかりますね。
犬山城というのは、何と重要な城だったのでしょうか!
こうやってみてくると、犬山城の貴重さが浮き彫りになりましたね。
そんな犬山城の天守は現存、国宝です。
ぜひ犬山城で三度の落城がどんな意味があったのかを肌で感じてみてください。
まとめ
- 犬山城は美濃と尾張の境に築かれた城
- 三度の戦を経験、そして三度落城
- 犬山城の戦いを経て織田信長、羽柴秀吉、徳川家康がそれぞれ飛躍した
犬山城は永禄8年、天正12年、慶長5年の三度落城し、落城した日は
- 永禄8年2月22日(1565年3月24日)
- 天正12年3月13日(1584年4月23日)
- 慶長5年9月3日(1600年10月9日)
でした。
織田信長、羽柴秀吉、徳川家康がそれぞれその後に飛躍する重要な戦いの一局面として、犬山城の戦いがあったということも分かりました。
犬山城がとても重要な城だったということが、今回見てきたことでよくわかりましたね。
そんな貴重な犬山城の天守は江戸時代以降、現在もなお残されており、とても貴重なお城です。
ぜひその姿を見つつ、戦国時代の三度の戦いに思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
犬山城の新たな魅力が見つかるかもしれませんよ。
ということで、「犬山城が落城した日」を解説しました。