国の規模は石高で決まる。
そして、それに見合うだけの城郭や城下町が整備されました。
では、犬山城の石高は果たして何万石だったのか?
変遷はあるのか?
そんな疑問を解決する「数字でみる犬山城シリーズ」
犬山城の石高
▲ 犬山城は尾張藩名古屋城の支城だった。犬山藩になったのは明治維新後。
犬山城の石高という表現は正しくないかもしれませんが、犬山藩になったのが明治維新のころなので、あえて犬山城と表現しておきます。
中川定成が城主だった1584年ごろは、およそ3万石(知行を石高に換算)。
その後、平岩親吉が城主のころ、つまり慶長12年(1607)ごろ、12万3000石。
そして江戸時代の歴代城主・成瀬家のときは、3万5000石。
ということで、最大12万石のころもありましたが、おおよそ3万石ぐらいですね。
では、他の城などとも比べてみましょう!
他の城郭の石高は?
代表的な他の城郭と比較してみましょう。
加賀藩(金沢城)前田家 / 103万石
薩摩藩(鹿児島城)島津家 / 73万石
仙台藩(仙台城)伊達家 / 62万石
尾張藩(名古屋城)尾張徳川家 / 62万石
紀伊藩(和歌山城)紀伊徳川家 / 62万石
さすが前田家。加賀100万石!
島津、伊達、御三家などの大大名メンバーが並んでいます。
しかし、残念ながらいずれも天守は残っていません。
江戸時代の犬山城主・成瀬家は大名ではありませんでしたが、尾張徳川家の付家老ということで城持ちを許されていました。
そう考えると、大名クラスの3.5万石を持っていたのは大きかったですね。
まとめ
犬山城は最大12万石、江戸時代は3.5万石の大名クラスの石高でした。
他の城郭・藩と比較して見るのもおもしろいですね。
ということで、犬山城の石高をご紹介しました。
じゃあね🖐️
2019年06月05日
犬山城マイスター!たかまる。