江戸時代も後期に入り、犬山と成瀬家の関係も変わってきたようです。
そんな中、江戸に居ながらにして成瀬家の家格回復に尽力したのは二十二代犬山城主・正寿(まさなが)でした。
ヨハンネス・ウィルヘルミユスという蘭名も持つ男。
成瀬正寿(なるせまさなが)の生い立ち
成瀬正寿(まさなが)は、天明2年(1782)正典の四男として江戸に生まれました。
父親が42歳のときに2歳になることを避ける俗説から、いったん森川千之助と名乗っていました。
寛政6年(1794)成瀬に復姓して正寿と名乗りました。
寛政11年(1799)御用向き見習いとなり、従五位下主殿頭に叙任されました。
文化6年(1809)正典の隠居により家督を相続し、隼人正に任ぜられました。
生涯のほとんどを江戸で過ごし、尾張藩の奥向きの御用と幕府との関係調整に尽力したとされます。
江戸で成瀬家の家格回復に尽力
▲ 正寿にとって犬山はどのようなところだったのだろう
文政7年(1824)八朔五節句(はっさくごせっく)の江戸城登城の許可が下りました。
また、天保4年(1833)には譜代大名並みの月次登城を実現させ、家格回復にも取り組みました。
天保8年(1837)、尾張藩主徳川斉温(なりはる)の養育に格別心を用いたとして、十一代将軍徳川家斉(いえなり)からお褒めの言葉と馬具を拝領しました。
文政年間(1818~1830)にオランダ商館長ブロンホフからヨハンネス・ウィルヘルミユスという蘭名を受けました。
天保9年(1838)江戸で死去しました。
第二十二代・犬山城主のデータ
成瀬正寿(なるせまさなが)
二十二代目城主(成瀬家七代城主)
在位 約29年:文化6年(1809)~天保9年(1838)
犬山城歴代城主についてはコチラの記事で。
まとめ
ということで、江戸で成瀬家の価格回復に尽力した二十二代犬山城主・正寿をご紹介しました。
じゃあね🖐️
2019年05月07日
犬山城マイスター!たかまる。