犬山城を舞台に織田信長と争いを繰り広げた織田信清(おだのぶきよ)。
稲葉山城主・斎藤龍興と共謀し、信長の尾張統一を阻止。
永禄8年2月、犬山城の戦いに敗れて甲斐に逃げ、犬山鉄斎と名乗った。
犬山城の『俺が城主だ!シリーズ』第2弾。2代目城主=織田信清(おだのぶきよ)。
2代目犬山城主・織田信清注1)
織田信清は、 初代犬山城主・織田信康の息子と言われますが、異なる見解もあるようです(大口織田氏(広近、寛近)や岩倉織田氏(敏広、寛広、広高)の系譜につながる可能性も指摘されている)※01、※02。
信康が犬山城主のころは岩倉の守護代・織田伊勢守に属していながら兄・信秀と共同戦線を張って尾張平定を目指していました。
が、信康が戦死すると、信清は犬山城を本拠地にして独自勢力として行動し、織田弾正忠家の当主となった信長に敵対しました。そして、犬山城が危機にさらされます。
信長は1563年(永禄6年)に小牧山城を築き、小口城(於久地城)にいた信清の兵は恐れをなして犬山へと逃げたといわれます。※08
そして1564年(永禄7年)5月、信長は信清の居城犬山城を攻め、城下や近くの寺院などを焼きました。
世に言う『犬山城の戦い』です。
ここで、信清は城を明け渡して甲斐に逃げ落ち、武田氏に仕えて「犬山鉄斎」と名乗りました。
この戦いで犬山城は初めて落城しました。
ついに信長は尾張を統一し、美濃へと再度侵攻して行くのですが、犬山城には重臣の池田恒興を入れました。
犬山城主として
2代 注1)
天文15年(1546)~永禄8年(1565)
18年
犬山での動静
父・信康が亡くなったのちに犬山城主となります。
天文18年1月17日、犬山から春日井原を抜けて竜泉寺の下、柏井口へ攻め寄せました。これは叔父・信秀に対して謀反を起こしたことになります。
しかし、信秀の軍勢が駆けつけてこれを撃退し、信清率いる犬山勢は春日井原を逃げ崩れて戻ったといわれます。
このころ、於久地城(小口城)、黒田城を支城として織田信長と勢力を二分するほど拮抗していた時期があると考えられています。
犬山城主だった期間は、信康から引き継いだ天文15年(1546年)から落城して逃げ落ちる永禄8年(1565年)の18年間です。
信清が書き残した文書や制札などは残されていません。
犬山城の戦いで敗れた信清は、甲斐・武田氏のもとに逃げ延び、犬山鉄斎(いぬやまてっさい)と名乗ったとされます。
織田信清が退城したのち、信長が犬山城も支配下に置き、丹羽長秀や池田恒興に任せることになります。
余談ですが、信清の妻は信長の姉(一説には妹)で「犬山殿」と呼ばれていました。※01
信清が犬山を離れてからは信長の保護を受けていましたが、本能寺の変後は尾張の領主となった甥の信雄の保護下にありました。「織田信雄分限帳」には「百八十貫文 弥勒寺郷 犬山殿」と書かれています。
プロファイル
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
氏族 | 織田弾正忠家(犬山織田氏) |
父母 | 父:織田信康 母:不詳 |
兄弟 | 不詳 |
妻 | 犬山殿(織田信秀の娘、信長の姉とも妹ともいわれる) |
子 | 津田信益、玄貞、玄信、柘植長定?、藤堂高虎養女(藤堂高刑室)、織田信雄養女(生駒忠親室) |
改名 | 不明 |
別名 | 十郎、十郎左衛門尉 鉄斎と号した。津田姓も名乗り、津田鉄斎、犬山鉄斎と称した。 |
官位 | 下野守 |
諡号 | 宗伝?、鉄斎 |
戒名 | 訃厳(ふげん) |
主君 | |
所領 | 犬山(愛知県犬山市) |
略歴
織田信康の子として生まれました。織田信康は信長の叔父です。したがって、信清と信長は従兄弟ということになります。
のちに信長の姉(一説には妹)を正室として迎えているため、信長とは義理の兄弟ともなりました。
父・信康は犬山城を居城として「織田伊勢守家」の当主だった織田信安の後見人となっていました。
信康の死後はその跡を継いで伊勢守家の配下になっていましたが、伯父・信秀の死後は犬山城を中心とする独自勢力として行動します。
天文18年(1549)1月17日、楽田城主・織田寛貞とともに信長に対して謀反を起こしますが、信長に鎮圧されて従属することとなります。
領地の争いから信長と険悪な状態になりますが、信長の姉(のちの犬山殿)をもらい受けて信長と協同するようになります。そして、浮野の戦い、岩倉城の戦いでは信長を支援します。
永禄元年(1558)7月12日、信長は2,000の軍勢を率いて浮野(愛知県丹羽郡浮野)で織田伊勢守家の織田信賢軍3,000と交戦しました。激戦となりますが、信長の元に信清の援軍1,000が到着すると一気に形勢が変わり、信賢軍は壊滅しました。これが浮野の戦いです。
翌年の永禄2年(1559)、信長の軍勢が信賢の居城岩倉城を包囲し、数ヶ月の籠城戦ののち、信賢は降伏しました。これが岩倉城の戦いです。
その後も美濃攻めに弟・勘解由左衛門信益を送るなどして、信長と協同していました。しかし、追放された信安・信賢の旧領地の分与を巡って信長と争うようになります。
一説には軽海の戦いで弟の信益を死なせた恨みからとも言われます。また美濃へ逃げた信安が手引きし、美濃宇留間城(鵜沼城)の大沢次郎左衛門もこれを援護したとされます。このころから美濃・稲葉山城の斎藤龍興と組んで信長に敵対していきます。
信清は小口城(愛知県丹羽郡大口町)、黒田城(愛知県一宮市)を支城として領有し、信長に対抗する勢力を保っていました。
永禄4年(1561)には犬山城の支城である於久地城(小口城)で戦闘がおこります。
信長は当初、於久地城主であった信清の家老・中島豊後守を調略しようとしましたが、失敗に終わります。その後、信長は於久地城に攻め入りますが信清方の於久地城が激しく抵抗し、信長軍を撤退させることに成功しました。
信長公記によると、
「六月下旬、於久地へ御手遣。御小姓衆先懸けにて、惣構をもみ破り、押し入つて散々に数刻戦ひ、十人ばかり手負これあり。上総介殿御若衆にまいられ候岩室長門、こうかみをつかれて討死なり。隠れなき器用の仁なり。信長御惜み大方ならず。」
とあります。
つまり、6月下旬に於久地に出陣。お小姓衆が先懸けとなって、惣構を押し破って突入し、数時間にわたる激戦となりました。この戦いで信長の若衆である岩室長門守重休(いわむろながとのかみしげやす)が、こめかみを突かれて討死しました。信長が大変惜しむほどの隠れなき才人であったといいます。
永禄5年(1562)には楽田城を攻め、これを奪います。
しかし、永禄6年(1563)に信長は犬山に近い小牧山に石垣づくりの城を築き、信清を徐々に包囲していきます。さらに信長は犬山の寂光院などに書状を送って取り込んだり、善師野の清水寺(せいせんじ)を焼き討ちするなどして信清を孤立させていきます。
永禄8年(1565)には家老の中嶋豊後守、和田新介が信長の調略により寝返ったため形成が不利となり、犬山城が包囲されてしまいます。犬山城の東にある瑞泉寺や城下などが焼かれたため、遂に信清は城を出て逃亡しました。居城の犬山城は陥落して信長の手に渡ります。これを犬山城の戦いと呼びます。※02
信清は犬山城を放棄したのち、甲斐武田氏のもとで犬山鉄斎と称しました。
歴代の犬山城主についてはコチラの記事で
>>> 犬山城の歴代城主まとめ
注釈
注1)江戸時代に書かれた『尾州丹羽郡犬山城主附』※03 や『尾州丹羽郡稲木庄犬山城初築之来由 歴代之城主』※04 などでは第4代とされるが木之下城時代も含まれているため、ここでは「犬山城」時代のみとして代数をカウントした。
参考文献
※01)『犬山城主織田信清の新史料と、その実像』 郷土文化、第69号第1号、P60、横山住雄著、名古屋郷土文化会、2014年8月15日
※02)『犬山城主織田信清の活躍と終焉』郷土文化、第69号第2号、P56、横山住雄著、名古屋郷土文化会、2014年8月15日
※03)『尾州丹羽郡犬山城主附』 西尾市岩瀬文庫蔵、明和5年(1741年)刊か?
※04)『尾州丹羽郡稲木庄犬山城初築之来由 歴代之城主』 犬山城白帝文庫蔵、宝暦3年(1753年)、賀島晶与著
※05)『尾濃葉栗見聞集』 岐阜県図書館蔵、享和元年(1801年)、吉田正直著
※06)『尾州犬山城主記』 西尾市岩瀬文庫蔵、文化14年(1817年)、賀島晶与著
※07)『犬山城主考』 西尾市岩瀬文庫蔵、文政元年(1818年)、吉野正張著
※08)『信長公記』 太田牛一、角川日本古典文庫、2019年9月28日
※09)『織田信長家臣人名事典』 高木昭作監修、谷口克広著、吉川弘文館、1995年(平成7年)1月10日
※10)『織田信長総合辞典』 岡田正人著、雄山閣
※11)『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』 横山住雄著、濃尾歴史文化研究所、平成5年6月
※12)『織田信長の尾張時代』 横山住雄著、戎光祥出版、2012年6月8日
※13)『張州府志』 宝暦2年(1752年)完成、名古屋史談会、大正2年7月発行
※14)『犬山里語記』 犬山市史 史料編四 近世上、犬山市、昭和62年1月31日
※15)『犬山視聞図会』 犬山市史 史料編四 近世上、犬山市、昭和62年1月31日