犬山も大いに舞台となった小牧・長久手の戦い。
それを少しづつ紐解いていこうと思います。
第1回は、天正12年3月13日に起こった「犬山城の戦い」です。
小牧・長久手の戦いとは?
そもそも、小牧・長久手の戦いってなに?
という方のために、まずは概要を。
天正12年(1584)に伊勢・尾張地方で起こった大規模な戦です。
織田信長の次男・信雄と徳川家康連合軍が、のちの太閤殿下・羽柴秀吉軍と伊勢で戦をし、犬山と小牧でにらみ合いを続け、長久手で合戦をし、竹ヶ鼻城や蟹江城でも戦をしたという、かなり広範囲にわたる戦のことです。
当時、尾張と伊勢の一部を織田信雄が治めており、三河は徳川家康。
羽柴秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討ち、天下を手中に納めんと勢いに乗っているときです。
それを食い止めようと立ち上がったのが、織田信長の後継者となった次男・信雄でした。
ここから、尾張での戦いが始まるのです。
詳しくはこれから順番に解説していきましょう❗
池田恒興、犬山城を急襲!
天正12年(1584年)3月13日の夜。
大垣城主・池田恒興、嫡男の岐阜城主・元助が犬山城を急襲します。
北尾張での戦いが始まった瞬間です。
不穏な感じの犬山城。
当時もこんな様子だったのかも。
池田恒興、出立!
3月13日早朝。
池田恒興、元助は東濃巡視と称して、大垣城、岐阜城からそれぞれ出陣します。
その数、元助が兵3,000、恒興は兵5,000。
本能寺の変のあと、東濃は森長可が平定していますが、まだまだ不安定な状況が続いていました。
森長可は池田恒興の娘婿で、信長とともに本能寺で敗れた森蘭丸の兄です。
娘婿の治める地域へ出向くのを不審がるやつは、あまりなかったのでしょう。
信雄と家康の落とし穴
織田信雄・徳川家康は、池田恒興は味方してくれると思っていたはずなので、東濃への出立も不思議に思わなかったのでしょう。
しかも、織田信雄は池田恒興の次男・輝政を人質として預かっていましたが、この戦いの直前に輝政を返してしまっていました。
ここに落とし穴があったのです。
池田恒興・元助は、人質である輝政が戻ってきたことで信雄方につく必要がなくなり、結果として羽柴秀吉方につきます。
恒興、鵜沼・伊木山城に着陣!
岐阜城を出立した元助は、老臣・伊木清兵衛忠次を先手として犬山城の対岸の鵜沼村に布陣して恒興の着陣を待ちました。
資料には残っていませんが、おそらくこのとき、伊木山城に陣を構えたでしょう。
伊木山城は、老臣・伊木忠次の居城なのです。
伊木忠次は、天正13年に美濃竹ヶ鼻で6,083貫文の知行を宛て行われ、天正17年の検地で知行5,000石をあらためて認められていますが、その領地の中に伊木山城周辺の地名が見られないため、天正13年以降に伊木山を離れたと考えられています。
逆に言えば、天正13年までは伊木山に在城していたということです。
最近書かれた資料やインターネットでは鵜沼城に陣を構えたと書かれているものが散見されますが、私は伊木山城を使ったと考えます。
理由は、3つあります。
- 鵜沼城はその時には廃城になっていたこと(1560年頃廃城と考えられています)
- 鵜沼城のすぐ南西(約2.4km)の伊木山城は老臣・伊木忠次の居城であったこと
- 池田恒興、元助の侵入経路が西(岐阜・大垣)からだということ
これらのことを総合すると、伊木山城を使うのは至極当然のことだと思います。
家臣の居城を素通りして、廃城にわざわざ陣を構えるでしょうか?
伊木山城が使われたのは間違いないと言っていいでしょう。
恒興、犬山城に忍び寄る!
さて、こうして鵜沼に集結した恒興・元助隊は、亥の刻(午後10時ごろ)木曽川を渡って犬山城の西に忍び寄ります。
当時の木曽川の川幅は今よりは狭かったと想像できますので、船10艘ほどあれば渡れただろうと考えられています。
犬山城は後堅固な城として知られており、北側の木曽川・鵜沼城・伊木山城を一望できます。
昼間では兵の動きがバレバレですので、夜陰に乗じて攻め入ったというわけです。
木曽川を渡った池田隊は、犬山城の後門・水の手に着きます。
城の内部に内通者がいて開門し、城の手数も少なかったため、あっという間に落城したと伝えられています。
「太閤記」、「美濃明細記」、「犬山里語記」などには事細かに描写されていますが、それらはあくまでも軍記物や物語であり、史実に基づいたフィクションだと考えたほうがよいでしょう。
大河ドラマは楽しいですけど、史実に基づいたフィクションだと言われています。
それと同じように、これらの書物をドラマとして楽しむ分には良い読み物でしょうね。
話が行ったり来たりしていますので戻します。
犬山城、落城! その理由は?
犬山城は後堅固な城。
北には木曽川、断崖絶壁の上に本丸があり、当時でも惣構えがあったと考えられているほどの城郭です。
なのに、何故そこまであっという間に落城してしまったのでしょうか?
これまた理由は3つ。
- 当時の犬山城主・中川勘右衛門定成が伊勢国の戦いで出陣中だったこと。留守居役を叔父の瑞泉寺・龍泉院院主の中川清蔵主が務めていましたが、守っていた兵は僅かだったと言います。
- 攻め込んだ池田恒興が元犬山城主であり、城郭のことは知り尽くしていたこと。
- 犬山城下の町民が池田恒興の味方をして、事前に情報を渡したり、攻め入るときに門を開放したり動いたこと。
これでは後堅固な犬山城も一晩で落城しても無理はありません。
奮戦するもあえなく討ち死に!中川清蔵主!
ここで城を守る側の留守居役の中川清蔵主が奮闘します。
しかし、西谷入口(現在の犬山城の城前広場)あたりで討ち死にしたと伝えられます。
現在では、現地に清蔵主の碑と榎塚が立てられています。
中川清蔵主の碑が結構デカイ
中川清蔵主はココでしか登場しませんので、もう少しだけ続けます。
中川清蔵主が住職を務めていた龍泉院が、現在でも犬山城の東にあります。
そこは清蔵主の墓所として祀られており、犬山市の案内板があります。
ここまで見に行く人はなかなかいないと思いますが、犬山城を訪れたときには少しだけ足を伸ばして行ってみるのもいいと思いますよ。
犬山城の戦い。その後。
かくして、犬山城は池田恒興・元助が奪い、秀吉方は敵国である尾張に橋頭堡を築くことができました。
これは秀吉にとっても、信雄・家康にとってもどえらい大きな出来事になります。
小牧・長久手の戦いは、まだまだ始まったばかりです。
参考文献
- 犬山市史 通史編上(平成9年11月25日、犬山市)
- 犬山市史 史料編3 考古・古代・中世(昭和58年3月31日、犬山市)
- 犬山市資料 第3集(昭和62年9月、犬山市)
- 愛知県史 資料編12 織豊2(平成19年3月31日、愛知県)
- 尾張志 下巻(昭和54年7月23日 復刻出版、愛知県郷土資料刊行会)
- 図説 犬山城(平成26年3月31日、公益財団法人 犬山城白帝文庫)
- 長久手町史 資料編6 中世 長久手合戦史料集(平成4年10月1日、長久手町役場)