天正12年(1584年)3月13日。
わずか1日で犬山城が落城します。
その後、犬山城主は誰になったのでしょうか?
新・犬山城主は、池田恒興。
当時の城主は中川定成でした。
当然、攻め落とした池田恒興が犬山城主になります。
羽柴秀吉が天正12年5月2日に出した制札に記録があります。
と書かれています。恒興が在城していた証です。
恒興は以前犬山城主だったことがあるので、みごと返り咲きですね。
が、池田恒興は4月9日に長久手の合戦(仏が根の戦い)で敗れて討死します。
つまり、1ヶ月もしないうちに城主が代わってしまうのです。
戦乱の世なので仕方ないですね。
ころころ代わる城主。池田恒興の次は?
では、次の城主は誰でしょう?
記録を見てみると、5月2日から加藤光泰が城主になったようです。
先の羽柴秀吉の制札です。
文中の「作内」というのは加藤光泰のことです。
加藤光泰は城主になった直後の天正12年5月7日に、犬山内田渡しの船頭8人の給地を安堵するなど、犬山城主として働いている記録が残されています。
加藤光泰は講和成立後、犬山城を織田信雄に返すまでの約7ヶ月間在城しました。
池田恒興 → 加藤光泰の空白期間
ここで空白期間があることに気づきませんか?
4月9日に恒興が討ち死にしてから、5月2日に加藤光泰が入場するまでの約1ヶ月間の空白期間です。
記録が無いためその間がどうなっていたのかわかりません。
まったくの空白期間です。
戦時中なので定めていなかったのかもしれませんが、
私は秀吉が城主だったのだろうと勝手に思っています。
根拠は全くありませんが、そのほうが犬山城の格が上がるというものです。
参考文献
- 犬山市史 通史編上(平成9年11月25日、犬山市)
- 犬山市史 史料編3 考古・古代・中世(昭和58年3月31日、犬山市)
- 犬山市資料 第3集(昭和62年9月、犬山市)
- 愛知県史 資料編12 織豊2(平成19年3月31日、愛知県)
- 尾張志 下巻(昭和54年7月23日 復刻出版、愛知県郷土資料刊行会)
- 図説 犬山城(平成26年3月31日、公益財団法人 犬山城白帝文庫)
- 長久手町史 資料編6 中世 長久手合戦史料集(平成4年10月1日、長久手町役場)