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森長可(もりながよし)【小牧・長久手の戦い】

森長可(もりながよし)

鬼武蔵と呼ばれるほど武に長けた男。
本能寺の変後は東美濃を一気に平定するなど、勇猛果敢に戦いに挑んだ。
長久手の戦いで討死。最後は鬼武蔵の名に恥じない散り方だったことだろう。
当時 27歳(推定)。

森長可という男

氏名森長可(もりながよし)
生誕永禄元年(1558年)
死没天正12年4月9日(1584年5月18日) 享年27
別名勝蔵・勝三、長一、鬼武蔵、武蔵守
両親父:森可成 母:えい(妙向尼)
兄弟可隆、成利(蘭丸)、長隆、長氏、忠政など

小牧・長久手の戦い当時は27歳。

東美濃を平定して美濃金山城を居城としていた。

この戦いでともに散った池田恒興は舅。

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森長可 略年表

画像:森長可像(可成寺所蔵)
森長可像(可成寺所蔵)
年月出来事
永禄元年
(1558年)
森可成(三左衛門)の次男として生まれる。
元亀元年
(1570年)
父・可成が戦死し、長男・可隆も同年に戦死していたため、わずか13歳で家督を継いだ。
織田信長に仕え、信長より一字拝領して勝蔵長可を名乗った。
元亀3年12月
(1572年)
羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署している。
元亀4年3月
(1573年)
第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。
稲葉良通、関成政らと共に突撃したとされる。
同年、槇島城の戦いにも参戦。
天正2年
(1574年)
第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加。
以後、信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げた。
天正10年
(1582年)
甲州征伐において先鋒部隊の将として抜擢。
同年2月6日木曽口より信濃国の武田領へと侵攻。さらに上野国へ侵入した。
これらの戦功により、武田氏滅亡後、信長から信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた。
長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられた。
同年4月海津城に入り領内の統治に取りかかった。
一揆が起こるがわずか2日で鎮圧した。
同年6月2日北陸方面軍の柴田勝家に加勢するために出陣中、本能寺の変で信長が討たれた。
敵地深くに進攻していた長可は一転して窮地に立たされる。
同年6月8日越後国から撤退。
同年6月24日無事に旧領・美濃金山への帰還を果たした。
翌日、岐阜城に赴き織田信雄、信孝、三法師に挨拶し弔辞を述べたという。
同年7月東美濃の抵抗勢力を制圧するために転戦。
旧領復帰から11ヶ月ほどで美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した。
この頃より、書状で武蔵守を自称するようになる。
天正12年3月
(1584年)
羽柴秀吉織田信雄との間で軍事的な緊張が高まったため、岳父である池田恒興と共に秀吉方につく。
同年3月13日池田恒興が犬山城を奪取(犬山城の戦い)。
同年3月16日長可、小牧山の占拠を狙って羽黒まで出陣。
同年3月17日
早朝
徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけた(羽黒八幡林の戦い)。
長可隊は迎撃したが徳川軍に攻め込まれて崩れ、野呂親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。
同年4月6日楽田城と小牧山城での膠着状態が続いたが、羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の大将として出撃。
同年4月9日岩崎城の戦い。
池田軍に加勢して丹羽氏重を討ちとるなど戦功をあげる。
しかし、信雄家康軍の攻撃を受けた大将・秀次が敗走。第3隊の堀秀政らが一時押し返す。
一方で、池田隊・森隊は長久手にて家康本隊と決戦に及ぶ。
長可は井伊直政の軍と激突して奮戦するも、鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死したと言われる。享年27。
戦後、遺言状が家老によって秀吉の元に届けられる。
遺言状には名器を秀吉に譲る旨などが書かれていた。さらに、「金山は仙千代(後の忠政)ではなく誰か信頼できる武将に任せるように」などと書かれていたが、秀吉は仙千代を跡継ぎに指名し、金山城が与えられる。
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参考文献

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