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織田信雄(おだのぶかつ)【小牧・長久手の戦い】

織田信雄(おだのぶかつ)

小牧・長久手の戦いの主人公。

織田信長の次男にして、本能寺の変後には織田の正統な後継者として美濃・伊勢を領国としていたが、一挙に勢力を拡大してきた織田家家臣の羽柴秀吉にケンカを売った男。

当時 26歳(推定)。

織田信雄という男

氏名織田信雄(おだのぶかつ)
生誕永禄元年(1558年)3月
死没寛永7年4月30日(1630年6月10日) 享年73
改名茶筅丸(幼名)→北畠具豊→信意→織田信雄→常真(号)
別名三介(通称)
最高官位内大臣
両親父:織田信長、母:生駒吉乃、養父:北畠具房
兄弟信忠(長男)、信孝(三男)、羽柴秀勝(四男)、勝長(五男)など
千代御前(雪姫)(北畠具教の娘)

小牧・長久手の戦い当時は26歳

官位は従二位。

尾張・伊勢を領有し、伊勢・長島城を居城としていた。

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織田信雄 略年表

織田信雄像
▲織田信雄像(総見寺蔵、画像:Wikipediaより)
年月出来事
永禄元年
(1558)
織田信長の次男として、尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷(愛知県江南市)で生まれる。
幼名は茶筅(ちゃせん)。母は生駒吉乃。
永禄12年
(1569)
北畠具房の養子となって雪姫(北畠具教の娘)をめとる。
元亀3年
(1572)
元服して北畠具豊となる。
天正2年7月
(1574)
北畠軍を率いて第三次長島侵攻に参戦。
天正3年
(1575)
北畠家の家督を相続。信意に改名。
田丸城へ移る。
同年、越前一向一揆討伐に参戦。塙直政・滝川一益・神戸信孝・長野信良と共に転戦。
天正4年11月25日
(1576)
滝川雄利・長野左京亮・軽野左京進に命じて北畠具教や家臣を殺害。
同日、信意自身も田丸城に北畠一族を呼び出して謀殺。
天正5年
(1577)
織田信忠の下で紀州征伐に従軍。
天正6年4月
(1578)
信忠の下で石山本願寺を攻撃。
5月、播磨国に従軍。
天正7年9月16日
(1579)
信意は信長に無断で伊賀一揆を攻めたが大敗。信長に「親子の縁を切る」とまで叱責される。
(第一次天正伊賀の乱)
天正8年
(1580)
田丸城焼失。
松ヶ島城を築いて居城とする。
天正9年
(1581)
信長が指揮のもと大和・近江・伊勢の軍勢に加わり、再度伊賀へ侵攻し平定。
(第二次天正伊賀の乱)
天正10年6月2日
(1582)
信長および信忠が明智光秀によって討たれる。
(本能寺の変)
同年 6月13日織田家臣の羽柴秀吉が光秀を討つ。
(山崎の戦い)
同年 6月27日 清洲会議で織田家当主は三法師、後見役は信意、信孝となる。
信意は尾張・伊賀・南伊勢約100万石を相続。それに際し、織田姓に復して織田信雄となる。
同時に家臣の津川義冬を家老に取り立てる。義冬は雄の字を与えられて「雄光」と改名。
同年10月徳川家康と後北条氏らの天正壬午の乱では、弟の信孝とともに双方の和睦を仲介した。
同年10月28日羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興が清洲会議を反故にして、信雄を当主として擁立。
主従関係を結ぶ。後に徳川家康も賛同。
天正11年4月
(1583)
秀吉と信孝・柴田勝家らが争い、秀吉が勝利(賤ヶ岳の戦い)。
信雄は秀吉方に属する。
同年5月 信孝の居城・岐阜城を攻めて降伏させる。信孝は切腹。
柴田勝家方の滝川一益も秀吉に降伏。
この戦いの結果、信雄は北伊勢・伊賀を加増する。
前田玄以を京都所司代に任命。
三法師の後見として安土城へ入城。
しかし、すぐに秀吉に退去させられ、信雄と秀吉の関係は険悪化。
天正12年正月
(1584)
近江国坂本の三井寺で秀吉と会見したが決裂。伊勢長島城に戻る。
その後、家康に接近して同盟関係を結ぶ。
同年 3月6日秀吉に内通した疑いで重臣の津川雄光(義冬)・岡田重孝・浅井長時を殺害
秀吉に事実上の宣戦布告となり、小牧・長久手の戦いが勃発
同年3月11日清洲城で家康と作戦会議を開く。
また長宗我部元親・佐々成政・雑賀衆とも連合して羽柴家と戦う。
同年3月13日重臣・中川定成の居城・犬山城を池田恒興に奪取される。
小牧山城に家康と信雄が入城。その後、楽田城に羽柴秀吉が入城し膠着状態となる。
このとき尾張の一部を秀吉方に占領される。
同年4月9日長久手の戦いで羽柴方の池田恒興や森長可らを討ち取る
このころ、伊勢では誅殺された重臣の一族が造反。九鬼嘉隆らも謀反。
また、羽柴秀長・蒲生氏郷・堀秀政・筒井順慶・藤堂高虎らの侵攻を受け、峯城・松ヶ島城・戸木城が落城。伊賀、伊勢などの領地を占領される。
同年11月伊賀・南伊勢・北伊勢の一部を秀吉へ割譲することなどを条件に、単独講和
家康は、秀吉と戦う大義名分を失って撤退。
この戦の後、信雄の領国は尾張・北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・河曲)となる
再検地を行い、家臣団の知行替えを行う。滝川雄利に神戸城を与える。
これ以降、秀吉に臣従。
天正13年8月
(1585)
正三位権大納言に叙任
同年8月富山の役に従軍。
同年11月家康の元へ織田長益・滝川雄利・土方雄久を送り、上洛を促す。
同月、天正地震で居城・長島城が半壊。その後、清洲城を改修して居城とする。
天正14年
(1586)
従二位に任官。
天正15年3月
(1587)
秀吉に従って九州へ出陣。
同年8月8日正二位に任官。
同年11月19日内大臣に任官
天正18年8月(1590)に改易により辞任したといわれる。
天正18年1月
(1590)
秀吉の養女となった信雄の長女・小姫と徳川秀忠が結婚。
同年小田原征伐に従軍。伊豆韮山城攻め、小田原城包囲など武功をあげる。
戦後の論功行賞で、秀吉より家康の旧領(駿遠三甲信5ヵ国)への移封命令がでるが、これを拒否。改易される。
改易後、下野国烏山に流罪となり、出家して常真と号した。
その後、出羽国秋田の八郎潟湖畔に流される。
さらに伊予国へと流される。
文禄元年
(1592)
文禄の役のときに家康の仲介で赦免される。
御伽衆に加えられ、大和国内に1万8000石を領する。
慶長5年
(1600)
関ヶ原の戦いにおいて傍観的態度に終始する。
その後、嫡男の織田秀雄とともに改易。
慶長19年
(1614)
大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身する。
元和元年7月23日
(1615)
家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられる。
領内に庭園「楽山園」を造営する。
四男・信良に上野小幡藩2万石を分知する。
常真は京都に隠居する。
寛永5年10月
(1628)
将軍・徳川家光より江戸城での茶会に招待されるなど、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送ったとされる。
寛永7年4月30日
(1630)
京都北野邸で死去。享年73。
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参考文献

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