徳川家康(とくがわいえやす)
織田信雄と共同戦線を張って羽柴秀吉と対峙した、後の天下人。
この戦いによって秀吉と家康の立ち位置が決まったと言っても過言ではない。
徳川家にとっては後世語り継がれることになる大きな戦い。
当時 41歳(推定)。
徳川家康のことはよくご存じのことと思います。
ここでは、小牧・長久手の前後の家康について記載します。
家康の生涯については、良書が多数あるのでそちらを参照してください。
氏名 | 徳川家康(とくがわいえやす) |
生誕 | 天文11年12月26日 |
死没 | 元和2年4月17日 享年75 |
改名 | 松平竹千代(幼名)→ 元信(初名) → 元康 → 家康 → 徳川家康 |
最高官位 | 江戸幕府初代征夷大将軍(在任1603年 – 1605年)、太政大臣 |
子 | 松平信康、亀姫、督姫、結城秀康、秀忠、松平忠吉(のちの尾張国主)、振姫、武田信吉、松平忠輝、義直(のちの尾張藩祖)、頼宣、頼房ほか |
小牧・長久手の戦い当時、家康は43歳、官位は従三位。
浜松城を居城としていた。
甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5か国を領有していたが、小牧・長久手の戦いの舞台となった尾張は三河の隣国であった。尾張・三河は今の愛知県。
※小牧・長久手の戦い前後を中心に記載
年月 | 出来事 |
---|---|
天文11年 (1543年) | 岡崎城に生まれる。 |
天正10年5月 (1582年) | 信長に招かれて安土城を訪れる。 |
同年6月2日 | 堺を訪れた際に京で本能寺の変が起こる。 少人数のお供とともに伊賀の山路を超えて三河に帰国(神君伊賀越え)。 |
同年 | このとき家康は遠江国・三河国を領していたが、本能寺の変後に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名となる。 |
天正11年 (1583年) | 賤ケ岳の戦い。 隣国の尾張は織田信雄、美濃は織田信孝が支配していたが、羽柴秀吉と織田信孝・柴田勝家の賤ケ岳の戦いなどの争いにより、尾張・美濃・伊勢を織田信雄が支配することとなる。 |
天正12年 (1584年) | このころより秀吉と対立するようになった信雄が家康に接近し、共闘して秀吉に対抗することとなる。 |
同年3月 | 信雄が三家老を粛清するのをきっかけに小牧・長久手の戦いが勃発。 |
同年3月13日 | 家康は尾張国へ出兵し清洲で信雄と合流。 当初、北伊勢方面が主戦場になるとして両軍は出兵していたが、犬山城の戦いによって秀吉方の池田恒興が犬山城を奪取したため、徳川軍は急いで小牧山に陣を張る。 |
同年 3月17日 | 酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破(羽黒の戦い)。 |
同年 3月28日 | 小牧山に着陣。 一方の羽柴方は犬山城を橋頭保として南の楽田城を本城として布陣。膠着状態となる。 |
同年 4月 | 池田恒興・森長可らが三河国に向け出兵。 家康も三河侵攻隊を追って小牧山城を出陣。 |
同年4月9日 | 長久手において両軍が激突。徳川軍は池田隊・森隊を撃退した(長久手の戦い)。 のちに「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」といわれることとなる。 |
その後、各地で局地戦が起こったが全面戦争とはならず、9月に信雄と秀吉が講和。 続いて家康も秀吉と講和を結んだ。 | |
天正13年 (1585年) | 小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合し、同様に秀吉に対応していた紀伊国の雑賀衆、土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政ら諸勢力は秀吉に服属。 |
同年7月11日 | 秀吉、関白となる。 |
天正14年 (1586年) | 秀吉は臣従要求を拒み続ける家康に対して実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを継室として迎えた。 |
同年10月18日 | 秀吉が生母・大政所を岡崎に送る。 |
同年10月27日 | 家康はついに秀吉に屈することとなり、大坂城において秀吉に謁見。 諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明。 |
その後、豊臣政権を支えたが、秀吉の死去、関ヶ原の戦いを経て徳川政権を樹立。 大坂冬の陣、大坂夏の陣を経て豊臣氏を滅亡に追いやり、江戸幕府を安泰のものとした。 | |
元和2年4月17日 (1616年) | 駿府城にて死去。享年75。 |
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