日本の城の変遷を見ていく上で、大きな一つの転換期となった時代があります。
それは飛鳥時代です。
大和朝廷によって大規模な山城が多く作られた時代です。
飛鳥時代に古代山城(こだいやまじろ)が登場した。
- 飛鳥時代後期に大規模な山城=古代山城が登城
- 白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)がきっかけ
- 山の山頂部を土塁や石垣などの城壁で大きく取り囲んでいる
飛鳥時代(崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年))の後期になると大規模な山城が登場します。
転地2年(663)に起きた白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)がきっかけです。
山の山頂部を土塁や石垣などの城壁で大きく取り囲んでいるのが特徴です。
朝鮮半島からの侵略に備えたため、西日本にしか見られないのも特徴の一つです。
以下ではもう少し深掘りしていきましょう。
きっかけは、663年の白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)
- 天智2年(663)に起こった白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)
- 唐・新羅連合軍に対し、倭国軍は大敗
- 侵攻に備えて作ったのが古代山城(こだいやまじろ)
日本の城の変遷を見る上で一つの大きな転換期と言っても良い戦いがありました。
天智2年(663)に起こった白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)です。
現在の中国にあった唐(とう)と朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)の連合軍(以下、唐・新羅連合軍)が、朝鮮半島にあった百済(くだら)の遺民と大和朝廷(やまとちょうてい)の連合軍(以下、倭国軍)が戦ったのが白村江の戦いです。
勢いの勝る唐・新羅連合軍に対し、倭国軍は大敗。
敗戦した倭国軍は撤退を余儀なくされます。
この後、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくるのではないか?ということで、大和朝廷は九州を中心に西日本に山城を作りました。
今ではこれらの山城のことを古代山城(こだいやまじろ)と呼びます。
この城作りには百済の遺民が日本に亡命し、彼らの技術を導入して作られました。
いわゆる朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)です。
古代山城の特徴
- 山の山頂部を土塁や石垣などの城壁で大きく取り囲んでいる
- 土塁は土砂をついて固める版築(はんちく)という工法
- 大野城、基肄城、水城、金田城など
古代山城の特徴としては、山の山頂部を土塁や石垣などの城壁で大きく取り囲んでいる点です。
土塁は土砂をついて固める版築(はんちく)という工法で作られています。
太宰府を囲むように築かれた大野城(おおのじょう、おおのき)、基肄城(きいじょう、きいのき)、水城(みずき)、金田城(かねだじょう、かねたのき)などがあります。
まとめ
飛鳥時代の後期、663年の白村江の戦いをきっかけに古代山城と言われる大規模な山城が造られました。
山の山頂部を土塁や石垣などの城壁で大きく取り囲んでいるのが特徴です。
朝鮮半島からの侵略に備えたため、西日本にしか見られないのも特徴の一つです。
ということで、飛鳥時代に古代山城が登場したというお話でした。
じゃあね🖐️
2020年01月07日
犬山城マイスター!たかまる。