愛知県犬山市と岐阜県各務原市(かかみがはらし)の間を境を流れる木曽川。
この川沿い、犬山城の川向かいに伊木山という山があります。
ここにはかつて伊木山城(いぎやまじょう)というお城がありました。
ご紹介します。
伊木山城(いぎやまじょう)
- 伊木山城(いぎやまじょう)は標高173 m の山頂の城
- 東西90 m、南北35 m で6段の曲輪(くるわ)があった
- 木曽川沿いに立ち、対岸には国宝犬山城
伊木山城(いぎやまじょう)は標高173 m の山の頂に築かれた城です。
山頂の城の規模としては、東西90 m、南北35 m で、山頂の曲輪を中心に東側に2段、西側に2段、南側に1段、合計6段の曲輪(くるわ)がありました。
発掘調査の結果、初期の段階の石垣も発見されたようです。
美濃と尾張の国境の要衝として、重要な役割を果たしたものと思われます。
現在の岐阜県各務原市小伊木4にある独立丘陵です。
木曽川の右岸(川の北岸)にあり、東側約2.6㎞、木曽川を挟んだ対岸には犬山城、北東約2.4㎞には鵜沼城(宇留摩城)があります。
登山道などの整備がされており、気軽に登ることができます。
鵜沼城を築城したのは伊木忠次
- 築城は永禄8年(1565)
- 築城者は伊木忠次
伊木山城が築城されたのは永禄8年(1565)ごろと思われます。
築城者は伊木清兵衛忠次です。
伊木忠次は、天正13年(1583)に美濃竹ヶ鼻で6,083貫文の知行を宛て行われ、天正17年(1589)の検地で知行5,000石をあらためて認められていますが、その領地の中に伊木山城周辺の地名が見られないため、天正13年以降に伊木山を離れたと考えられています。
逆に言えば、少なくとも天正13年までは伊木山に在城していたということです。
伊木忠次は池田恒興(いけだつねおき)、次いで池田輝政(いけだてるまさ)に仕えました。
池田輝政は天正13年(1585)に美濃国岐阜城10万石を与えられ、天正18年(1590)には三河国吉田城15万2千石となりました。
伊木忠次はそれに従い、三河田原城を与えられましたので、この天正18年(1590)に伊木山城が廃城となったと思われます。
なお、関ヶ原の戦いの功績により池田輝政が姫路藩52万石を与えられて播磨国に移ると、伊木忠次も筆頭家老として三木城3万7千石を与えられ、播磨国に移りました。
歴史に登場する伊木山城
伊木山城が歴史に名を出すのは2回です。
- 織田信長による東美濃侵攻
- 小牧・長久手の戦い
織田信長による東美濃侵攻
永禄8年(1565)、織田信長が東美濃に攻め込むときに伊木山城に布陣したと信長公記に出てきます。
信長公記には下のように書かれています。
信長は、木曽川を超えて美濃の国へ侵攻した。敵の宇留摩(うるま)の城主は大沢基康、隣の猿啄(さるばみ)の城主は多治見修理といいい、二つの城は木曽川沿いにあり、犬山の川向うに並んで持ちこたえていた。
一方の城から十町、他方の城から十五町離れたところに、伊木山という高い山がある。信長はこの山に登って砦を堅固に造り、両城を見下ろして布陣した。
宇留摩の城は、信長がすぐ近くに陣を構えたので、とても守り切れないと判断して城を明け渡した。
簡単に解説します。
犬山城を攻め落として尾張統一を果たした織田信長は、東美濃を攻めにかかります。
鵜沼城(宇留摩城)、猿啄城を攻めたい信長は、犬山城の対岸にある伊木山に目をつけ、ここに砦を築きました。
これが伊木山城のことです。
伊木山城(標高173 m、比高110 m)は鵜沼城(標高90 m、比高40 m)よりも高く、見下ろすことができます。
しかも、犬山城に布陣していた場合、鵜沼城との間に木曽川が流れているために天然の堀の役割をしていて攻めにくいのですが、伊木山城と鵜沼城はともに木曽川の右岸ですので、そこを隔てるものがなく攻めやすくなるわけです。
そうなってしまっては、大沢氏も城を明け渡すしかなかったのでしょう。
ということで、伊木山が絶好の地の利があるために東美濃侵攻の拠点とされたのです。
一級史料として活用されていますが、読み物としても楽しく読める史料です。
今では現代語訳も出されていますし、解説付きなのでとても分かりやすくておススメです。
小牧・長久手の戦い
伊木山が歴史に登場する2度目は、小牧・長久手の戦いのときです。
小牧・長久手の戦いについては様々な資料がありますが、はっきりと伊木山城が使われたとは記されていません。
しかし、犬山城を攻め落としたい羽柴方の池田恒興にとって、犬山城よりも標高の高い伊木山城を活用しない手はありませんでした。
またこの時、池田恒興の家老として大活躍していた伊木清兵衛忠次は、かつて伊木山城の城主でした。
良く知った城を利用するのは当然だっただろうを思われます。
それらのことを考えると、小牧・長久手の戦いのとき、犬山城を攻め落とすさいには伊木山城を使っただろうと筆者は考えています。
この辺りについては、下の記事↓↓↓で詳しく書いていますので、ご一緒にどうぞ。
小牧・長久手の戦いの後、天正18年(1590)に伊木山城は廃城になりました。
伊木山城の立地と縄張り
- 標高173 m、比高はおよそ110 m
- 山頂からは360度、見渡せる
- 山頂に6段の曲輪がある
立地
伊木山城は上でも書いた通り、標高173 m、比高はおよそ110 m です。
伊木山は東西に尾根が連なる独立丘陵で、その地質は層状チャートです。
山頂から南を望めば木曽川が山麓に見え、さらに濃尾平野が一望できます。
北は美濃国、現在の各務原市から岐阜市にかけて一望できます。
また東海道や中山道なども見下ろすことができます。
伊木山は、各務原台地南側にいくつかある山の中でも最も高く、急峻な地形でもあるので山城にするには最適と言えます。
頂上から、宇留摩城(鵜沼城)、稲葉山城(岐阜城)、猿啄城(さるばみじょう)、犬山城などを一望できることからも絶好の地の利があることがわかります。
信長が東美濃侵攻の拠点としたことが、それを証明していますね。
縄張り
山頂の城の規模としては、東西90 m、南北35 m で、山頂の曲輪を中心に東側に2段、西側に2段、南側に1段、合計6段の曲輪(くるわ)がありました。
さらに山頂から尾根伝いに東へ進むと「キューピーの鼻」と呼ばれている見晴らしの良い場所に出ます。
ここはかつて、物見として使われたのではないかと思われます。
「キューピーの鼻」から犬山城や鵜沼城が一望できます。
まさに戦うための山城です。
一方で、大手は西側にあったものと考えられ、現在もそこから山へ登ることができます。
西側の山麓には駐車場も整備されているため、こちら側からゆっくりと登るのがおススメです。
西側駐車場 → (おそらく)大手道 → 本宮跡 → 山頂(伊木山城跡) → キューピーの鼻 → (山頂へ戻る) → 陽だまりの道 → 熊野神社 → 駐車場
伊木山城の見どころ
- 軽いハイキングと思って楽しもう
- キューピーの鼻から見る景色
- 犬山城、鵜沼城、木曽川を見下ろそう
伊木山城に登るルートは東側(七曲りの道)、北側(心臓破りの道)、西側(花咲く稜線の道、木曽川を望む陽だまりの道)の4ルートがあります。
- 東側から「七曲りの道」
- 北側から「心臓破りの道」
- 西側から「花咲く稜線の道」
- 西側から「木曽川を望む陽だまりの道」
最も緩やかなのは西から登るルート(花咲く稜線の道、木曽川を望む陽だまりの道)です。
そして最もきついのは北から登るルート(心臓破りの道)です。
山頂では、曲輪跡を見ることができます。
西曲輪、主郭、南曲輪、東曲輪が分かると思います。
案内板や説明板などはほとんどありませんので、縄張り図を持っていくと良いでしょう。
A4で印刷できるようにしておきましたので、下記の画像をクリックして印刷していってください。
あと、コンパスを忘れずに!
比較的、気楽に登れる山でもあるため、山城初心者にも手頃だと思います。
残念なことに木々が生い茂っているため、眺望はあまり良くありません。
「キューピーの鼻」で犬山城や鵜沼城を一望できるので、ぜひ足をのばしてみてください。
伊木山城インフォメーション
別名 | - |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 伊木忠次 |
築城年 | 永禄8年(1565) |
主な城主 | 伊木忠次 |
廃城年 | 天正18年(1590) |
遺構 | 曲輪、石垣 |
場所 | 岐阜県各務原市小伊木4 |
まとめ
伊木山城は、尾張と美濃の境、木曽川沿いにある独立丘陵に造られた城で、眼下には犬山城や鵜沼城、木曽川などを見ることができます。
織田信長の東美濃侵攻や小牧・長久手の戦いで使われ、当時の曲輪がいまも残っています。
標高173 m とそれほど高く、気楽に登ることができるので、山城初心者でも楽しむことができると思います。
伊木山城に登った際には、「キューピーの鼻」から犬山城や鵜沼城を眺めて信長の気分を味わってみるのも面白いですよ。
ということで、伊木山城をご紹介しました。
じゃあね🖐️
2019年12月28日
犬山城マイスター!たかまる。