中世から戦国時代に移り変わっていくと、城の役割が変わっていきました。
織豊系城郭と呼ばれている城づくりは、織田信長によって生み出され、豊臣秀吉によって広められました。
今回は織豊系城郭について深掘りしていきます。
城は織豊期(しょくほうき)に画期的な進歩を遂げた。織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)
- 応仁の乱以降、戦国大名が台頭し、山城が造られた
- 織田信長が、近世城郭の基礎を築いた
- 豊臣秀吉が、その築城理念を広めた
- これを織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)と呼ぶ
応仁の乱以降、世の中が不安定になって室町幕府の権威が低下するのに伴い、戦国大名が登場しました。
彼らは平地の居館から、防御力の高い山に城を移すようになりました。
さらに織田信長は城を権威の象徴として築き、近世城郭(きんせいじょうかく)の手本となるような画期的な城づくりを行いました。
そして豊臣秀吉がこの築城理念を引き継ぎ、全国の大名が真似をすることによって技術が広まっていきました。
城は、一大軍事拠点としての役割を経て、権威の象徴としての側面も持つようになります。
それは織田信長によって生み出され、豊臣秀吉によって広められ、織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)と呼ばれます。
ここからは深掘りしてみていきます。
戦国期の城郭
- 応仁の乱以降、戦国大名が登場
- 防御力の高い山に城を移した
- 山城が居住と政治・軍事の二つの機能を持つ一大拠点となった
応仁の乱以降、世の中が不安定になって室町幕府の権威が低下すると、戦国大名(せんごくだいみょう)が登場します。
戦国大名は平地の居館から、防御力の高い山に城を移すようになりました。
そして、家臣も山に住むようになったため、山城は大規模化しました。
例えば、
- 浅井氏の小谷城(おだにじょう)
- 毛利氏の吉田郡山城(よしだこうりやまじょう)
- 上杉氏の春日山城(かすがやまじょう)
などです。
数多くの曲輪が築かれ、城主や家臣の屋敷や蔵などの施設が作られました。
また、石垣も整備されるようになりました。
つまり、山城が居住と政治・軍事の二つの機能を持つ一大拠点となったのです。
このことは、中世の山城と違う点です。
中世の山城は詰城(つめじろ)としての役割であり、普段は山麓に築いた居館に住んでいたからです。
織田信長の城づくり
- 戦国の混乱の中、織田信長(おだのぶなが)が頭角を現す
- 天守を頂点に、山腹、山麓、城下にかけて階層的に作った
- 特長は、きらびやかで大きな天守、高石垣、瓦葺の礎石建物、防御力の高い出入り口
戦国の混乱の中、メキメキと頭角を現したのが織田信長(おだのぶなが)です。
信長は大名を頂点に置き、家臣や町人が階層的な序列になるように求心的な体制を目指したと思われ、それが城づくりに現れています。
その象徴となるのが安土城(あづちじょう)です。
安土城は、天守や御殿に信長が住み、そこを頂点として家臣の屋敷を山腹、山麓、城下にかけて階層的に作りました。
また山麓には城下町も整備しました。
町人も信長の城を見上げる生活を送ったのです。
つまり、その配置によって階層がわかるようにしたのです。
信長の城で特徴的なのが、
- きらびやかで大きな天守
- 高石垣
- 瓦葺の礎石建物
- 防御力の高い出入り口
などです。
城を単なる軍事施設として作るのではなく、権力を示すための象徴という意味を持たせたのです。
これが城を中心として街が発展するきっかけとなりました。
このため、安土城は近世城郭のお手本となるような画期的な城と評価されています。
豊臣秀吉が理念を継承し広めた
- 信長の城づくりは、豊臣秀吉が継承
- 大名が築城技術を習得
- 全国に広まった
織田信長は天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変によって自刃しました。
その後、天下を統一した豊臣秀吉によって、信長の城づくりの理念が継承されました。
城は権力の象徴であり、きらびやかで大きな天守、高石垣、瓦葺の礎石建物などがどんどんと巨大化していくのです。
さらに秀吉によって、
- 大坂城の築城
- 聚楽第(じゅらくだい)の築城
- 肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)の築城
などが諸大名に分担されました。
このことによって織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)の築城技術が学ばれることになります。
技術を習得した諸大名は、それぞれの地方に技術を持ち帰り、同じように城づくりを行いました。
このことにより織豊系城郭の技術が全国に広まったのです。
織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)の特徴
織豊系城郭の特徴としては、
- 出入り口を工夫し、急進的な構造にした
- 天守や石垣、瓦葺の礎石建物などで権力をアピールした
- 城を頂点とする城下の整備を行った
です。
これらは豊臣秀吉が天下統一するのに伴って、全国に広がっていきました。
この後、関ヶ原の戦い前後に築城ラッシュとなり、築城技術は最高レベルに到達することになるのです。
続きは次回のブログにて。
まとめ
- 応仁の乱以降、戦国大名が台頭し、山城が造られた
- 織田信長が、近世城郭の基礎を築いた
- 豊臣秀吉が、その築城理念を広めた
- これを織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)と呼ぶ
戦国大名の台頭により、一大軍事拠点としての城が造られました。
さらに織田信長によって近世城郭の手本となるような画期的な城作りがされ、豊臣秀吉の天下統一によって全国へと広がっていきました。
これらを織豊系城郭(しょくほうけい)と呼び、近世城郭へを一気に広がっていくのです。
ということで、城は織豊期に画期的な進歩を遂げた、というお話でした。
じゃあね🖐️
2020年01月11日
犬山城マイスター!たかまる。